第3回:砂子塾長の熱血ドラテク持論

インストラクターとして、アマチュアからプロまで数多くのドライビングを見てきた砂子塾長の連載コラム自身の持論をもとにスキルアップを願うレブスピード読者にエールを贈る第 3回目は『公的自己美意識』について「かっこいい走りの源になる」と説く

公的自己美意識が「かっこいい走り」を育てる

 電車のシートに座っていた。そこに白髪の少し腰の曲がったおばぁちゃんが、、、。もちろん、すぐさま立ち上がり、声を掛けて席を譲る。日常の光景ではあるが、その深層心理を考えてみよう。「優しさ」「常識」「モラル」これらのワードがこの行動の発端ではあるが、もうひとつ、裏側に潜む心理が存在する。

 「腰の悪いおばぁちゃんが目の前に立っているのに、席を譲らないなんて、とんでもない野郎だ!」なんて、周りの人に思われたくない。そう、どう見られるか?は行動を決める大きな要因なのである。というわけで、今回のテーマは『公的自己意識』。さらに飾りつけていうなら『公的自己美意識』だ。

人からどう思われるか?どう見られるか?つねに人はその呪縛にとらわれている。たとえば、女性は化粧し、着飾る。男性だってお洒落や振る舞いに気を遣う。どう思われてもいい、、、なんて思ったら、社会性ゼロの、ある意味奇人変人であろう。この自己美意識がない人間ほど仕事・人間関係などにおいて「使えないヤツ」と思われても仕方ない。仕事の場面で知らないことを上司にいわれ、「はい」「はい」と理解してもいないのに答えたことは誰にでもあるだろう。

つまり、「こんなことも知らないのか?」と上司に思われたくないからそういう対応になる。知らないことを、さも知っているかのように振る舞うことがいいわけではないが、心理として自己美意識が働いている場面だ。もっと悪い側面での美意識例を挙げてみよう。歩きタバコをしているヤツが少しだけ周りを気にしながらその吸殻を道路の側溝に捨てた。これは「悪いこと」という認識のもとに、でも、誰にも見られていないなら、つまり「モラルがないヤツと思われずに済むなら、捨ててしまえ」という行動。まったく浅はかでさもしい。

クルマや交通の場面における公的自己美意識を考えてみよう。そもそも閉鎖隔離された車室内、鼻をほじりながらのドライブを誰にも悟られずにやれそうだが、油断は禁物だ。その横を走るクルマやトラック、バスからの目、交差点はさらに人の目が多く、信号待ちでの鼻ほじりなどもってのほかである。外からの隔離感が強い車室内はドライバーをエゴ的心理に変えがちだ。

ほかのクルマや歩行者や自転車から自身はどう見えるのか?そんな意識を持って臨めば、自ずとスマートな行動になり、美しいドライビングになるだろう。ドライバーではなく、歩行者の立場であっても、それは同じだ。たとえば、横断歩道を左折車が待っているのにスマホをイジりながらノロノロと渡る。さぞや左折待ちのドライバーはイライラするに違いない。「こいつ ……」と舌打ちが聴こえてきそうだ。

では、本題に入る。サーキットでの公的自己美意識とは何だろう?以下のようにまとめてみた。プロドライバーは走りながらコクピットから見ている。観客席やコースサイドの芝生から見ている人がいることを。だから、お手本となるべき、美しく無駄のないライン、縁石ギリギリまで 10cmと狂わない攻め込みを魅せる。「どうよ〜見てる?」これがそのときのドライバー心理だったりする。

SUGOのSPコーナー2個目の出口。アンダーもオーバーも出ていないときでも必ず縁石を少しはみ出して走る。もちろん、平日のテストであっても観客席の8名(プロは少ない人数なら数えられる)に対して魅せるのだ。人目に美しく、そして感動を与えるプロフェッショナルスポーツ。観客なくしては火事場のバカ力は生まれない。

深層心理に魅せたいと強く思う公的自己美意識こそがファインプレイを助長する。その一瞬は目の前のやるべきこ とに一生懸命ではあるが、その結果の充実感は、見ていてくれる、応援してくれている、魅せるべき 観客ありきで得られるものだ。

ファッション・スタイル・日々日常の行動や生活。大袈裟ではなくとも公的自己美意識は存在し、アナタの行動を深層で司っている。「いい男」「いい女」ついでに「いいドライバー」。公道でもサーキットでも、そう思われるように努めるべきだ。公的自己美意識は「かっこいい」を育てるのだ。

 

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