第33回:砂子塾長の熱血ドラテク持論

高性能ドライビングシミュレーターによるトレーニングルーム『東京バーチャルサーキット』に加え、『砂子塾』と銘打つ富士P2や筑波ジムカーナ場での広場トレーニングで多くのドライバーを教える砂子塾長の連載コラム。

2019年のブランパンGTシリーズ・アジアも好調のまま日本ラウンドへ。6月1日、スーパー耐久第3戦『富士SUPER TEC 24時間レース』で催された『スーパー耐久ピレリ クラシックチャレンジエキシビジョンレース』に。プリンス東京FUJITSUBO R33GT-Rで出走!当時の思い出が蘇る。

23年前の彼女と再会!劇的な96年の最終戦に思いを馳せる

1996年11月のスポーツランドSUGO。スーパーN1耐久(現スーパー耐久)シリーズ最終戦。1クラスは13台ものR33GT-Rがスターティンググリッドに並んだ。

プリンス東京FUJITSUBO、プリンス千葉ファルケン、アルティア、レッツォ、エンドレス……。

P東京はP千葉とシリーズ争いで、わずか1ポイント差。P東京がかろうじてトップだった。このSUGOで、先にゴールしたほうがチャンピオン。この図式、TOYOワークスvsファルケンワークスという戦いでもある。

現在のS耐STX(GT3)は必ず、ジェントルマンドライバーを1名入れなくてはならないレギュレーションだが、当時の1クラスは全員がプロ。それも13台ものGT-Rが争うわけで、バブルが弾けた後ではあったが、相当な過熱ぶりだった。

当時のBCNR33はブースト規制もなく、予選では500psをゆうに超えていた。

95年デビュー当初の同車はタービンや電子制御にさまざまな問題を抱えていたが、2年の歳月で熟成され、BNR32時代とは比べ物にならないスピードを得ていた。しかし、パワー、スピードともに向上したものの、ブレーキとミッションには、500km以上のレースでは、つねに爆弾を抱えているようなものだった。

ブレーキパッド残量が足の裏の感覚で「残量1mm!」みたいな世界がわからないようではGT-Rドライバーは務まらない。ガラスのミッションを24時間持たせることができる、絶妙なシンクロタイミングも必須であった。タイトルを争うチームのムードは相当な緊張感に包まれ、P東京とP千葉が仲よく話をするシーンなど皆無だった。

最終戦SUGOは500km。序盤からトップを走るP千葉の横島久選手をP東京のオレが追う展開。トップの2台が異常にほかより速い。1スティント中盤前に横島選手を抜き去り、独走体制に。ジリジリとP千葉を引き離す。

2スティント目もオレから代わった福山英朗選手はP千葉の竹内浩典選手をジリジリと引き離す。勝利とチャンピオンが、かなり近い存在であることをチーム全員が思い始めた。

最後のスティント、ピットには張り詰めた「凛」とした空気が充満。ドライバーは再びオレへ。タイヤ交換もミスなくコースへと送り出される。スタッフたちは小さなガッツポーズの後に、おのおのが握手する。

そのピットアウト後のSP出口。悲劇は何の前触れもなく起きた。3速ギアが大きな音を立てて破損したのだ。「そりゃあ神様… いくらなんでも酷過ぎる仕打ちでしょ!」

しかし、オレは冷静だった。その3速ギアの破片がケース内の下まで落ちるまでスロー走行。築き上げたギャップは一挙に失い、P千葉・横島選手がミラーに映る。

そして… 抜かれた。ピットでは、さぞかし大きな落胆と悲鳴が轟いたであろう。しかし、あきらめなかった。

ミッション内の異音が静まると同時に追撃を開始! SUGOは3速ギアを多用するが、2速と4速でカバーしながら追う。自身でも信じられないハイペース。3速ギアがないというのに。

終盤、P千葉とのギャップが詰まっていく。「おかしい…」「千葉も何かを抱えている…」

無線でも随時、タイムギャップが連呼される。そして、迎えたラスト2周。再びドラマは起きる。1コーナーでP千葉のブレーキローターが割れたのだ。名手・横島選手はクラッシュさせることなくピットへとクルマを運ぶ。

やっと、やっと来た、歓喜の、歓喜の瞬間!ピットクルーは狂わんばかりに抱き合う。そのみんなが待つコントロールラインを高々と拳を上げてチェッカーフラッグを受ける。

チャンピオンを勝ち取った瞬間だった。

あれから23 年。6月1日、富士スピードウェイ。パドックではカメラ! カメラ!またカメラ! その撮る笑顔の口もとは、みんな「懐かしい~」といっているようだ。23年前の彼女は完調とはいかなかったが、ストレートは踏めた。RB26DETT+FUJITSUBOサウンドが富士のストレートに響き渡った。

 

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