第56回:砂子塾長の熱血ドラテク持論
※ この記事は2021年にRevspeedコラムで掲載された記事です。
2021東京オリンピック・パラリンピックが閉幕した。1964年の東京オリンピックから実に57年(この年に砂子塾長、いや砂子智彦誕生)が経つ。
それにしてもパラ競技の凄さには舌を巻く。「よくぞ!」と感心の連続。ハンデキャップという言葉が当てはまらない。陸上、走り幅跳びなどは義足というスペシャル装具で武装するジャンパーはとてつもない距離を飛躍する。
他にも、全盲のトライアスロン選手、腕脚のない競泳選手・・・。
五体満足の自分の怠けっぷりが恥ずかしいほどである。笑
パラの最中にふとテレビのチャンネルをまわした。そこに写された男性は高齢で全盲で両手がなかった。なんと、唇で点字を読んでいた!
その方こそ、元教師の藤野高明さん(82歳)。戦争の終わった翌年、小学2年時に不発弾の事故により両眼の視力そして両手も失ってしまった。
そこからの人生ったら・・・。
まだまだ障害者への大きな差別、偏見の時代。強い精神力、そして簡単に口に出してはならないであろう「努力」。1964年、東京オリンピックの年に大阪市立盲学校を卒業する。藤野さん25歳の時だ。
そこからさらに難関である大学進学、当時は全盲の方が教員採用試験受けるなど想定すらなかったとの事。紆余曲折、34歳で母校である大阪市立盲学校にに正教諭として採用され2002年まで教壇に立った。
藤野さんが記したNHK障害福祉賞のために書いた手記のタイトル
「人と時代に恵まれて」
この方、どんだけプラス思考やねん!
レースファンであれば知らないものはいないパラアスリート。アレックス・ザナルディ。元F1、そしてアメリカCARTチャンピオン。
CARTのクラッシュにより両足切断するもハンドサイクルの金メダリストとなり、またレースにも復活、DTMにBMWワークスとして参戦した。3年前、富士に彼がDTMで来ていて朝一番で訪ねて握手を求めた。
そのアレックスの大きな分厚いグローブのような手は人間の未知の可能性を感じさせた。
今では常識のハンディキャッパーのモータースポーツ。昔はメディカルチェックなるものが各レース毎の朝に必ず受けなければならなかった。検尿、血圧、そして目を瞑って片足立ち。
つまり脚の不自由な人はメディカルチェックをパス出来ないのである。有事の際に自力でマシンから脱出できる事が条件であったのだろう。今ではこのメディカルチェックは行われなくなった。
日本を代表する障害者レーサーと言えば青木拓磨選手。1998年2輪のテスト中の事故により脊髄損傷。それから23年。彼の夢だったル・マン24時間をもう2人の車椅子の障害をもったドライバーとともに見事完走という偉業を成し遂げた。
一度だけ脚の不自由な方の為に改造されたクルマで筑波を走った事がある。アクセルはステアリングの内側にあり、引けばON離せばOFF。ブレーキはステア横にレバーがあり、押すとブレーキがかかり戻せばリリースだ。
僅か数Lapでは慣れようもなくただただ戸惑ったドライビングとなった。笑汗
最初から運転というものが、こういうものであれば違和感はないのであろうか?検証はできない。
コーナー進入、左手でブレーキレバーを押し、その後リリースしていく。そこで右手はステアを。初期ステアが片手運転になってしまうのだ。
これは前述のル・マンを走破した青木選手のLMP2マシンも基本の操作は同じである。違うのがブレーキレバー先端にシフトダウンスイッチがついている。
そもそもスポーツドライビングは正しく操作してタイヤ、エンジンのポテンシャルを引き出すものである。と、すれば何もペダルは足で操作しなければならないわけではない。
モータースポーツこそが道具を使うスポーツの最たるものであるなら、もっともっとハンデキャッパーが健常者と共に戦うシーンがあってしかるべきかもしれない。
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